思い重ねて:東日本大震災3年 牛の涙、忘れない
福島・楢葉で世話を続けた牧場主 激励の手紙「いつかお礼を」(以下、毎日新聞 2014年04月28日 東京夕刊より転載)
http://mainichi.jp/shimen/news/20140428dde041040054000c.html・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「瀕死(ひんし)の牛に『ごめん』 最後の世話 1日分の餌」−−。忘れられない取材がある。2011年4月21日、福島県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。
干し草を積むトラックが着くと130頭の牛が鳴き出し、我先にと餌を食べ始めた。
牛舎で栄養不足の子牛が息絶えようとしていた。「何もしてやれなくてごめんな」。
牧場主の蛭田博章さん(45)は涙を浮かべ、牛の背をなでた。

瀕死の子牛の背をなでる蛭田さん=福島県楢葉町で2011年4月21日
東京電力福島第1原発事故を受け、原発の半径20キロ圏内は
翌22日から立ち入り禁止の警戒区域になることが決まった。牧場は原発から19キロ。
事故以降、蛭田さんはいわき市の避難先から3日おきに餌やりへ通っていた。
「最後の世話」の見出しがついた記事は22日朝刊(東京本社発行紙面)に掲載された。
だが、それは「最後」にはならなかった。
蛭田さんはその後も抜け道を車で2時間走って牧場に通った。
「どうしても見殺しにはできない」。すぐ後に異変は起きた。
5月上旬、牧場へ着くと、牛50頭が牛舎から外に出ていた。誰かが牛舎の柵をこじ開けていた。
半分は牛舎に戻せたが、残り半分はぬかるみにはまって動けなくなり、助け出せずに死んだ。
その後、牧場に「牛を殺すな」との張り紙がされた。
自分が書いた記事のせいではないか−−。電話で蛭田さんから事情を聴き、申し訳ない気持ちになった。
□
今年3月、蛭田さんと再会した。ずっと気になっていた牛の最期を聞かせてもらった。
3日おきの餌やりにもかかわらず、栄養不足や夏の熱中症で次第に数は減り、
11年末に10頭になった。
研究機関から、警戒区域の動物の残留放射線量を調べる検体にする提案を受けた。
「牛の命が世の中の役に立てるなら」と承諾した。
11年12月27日。穏やかな青空が広がっていた。
横たわってかすかな息をしている牛に注射をし、安楽死させる作業が粛々と進んだ。
最後の1頭は、4歳の雌牛だった。骨と皮だけで辛うじて立っている。
暴れないよう固定具を付ける際、元気な牛なら逃げ回る。だが、その時は向こうから近づいてきた。
蛭田さんが固定具を付けると、牛の大きな目から涙がこぼれた。
蛭田さんは今、楢葉町の農業復興組合で除染後の農地の保全活動に携わっている。
祖父(93)が創業した牧場は、震災前は県内有数の規模だったが、再開は見通せない。
蛭田さんは一時、自殺も考えた。だが「支えてくれているものがある」という。
あの記事が出た際、全国から激励の手紙が寄せられた。数人と今も文通を続け、
「お体に気をつけてください」などのささいな言葉にいつも励まされる。
「牛がつないでくれた縁。まだ会ったことのない方々ですが、いつか直接お礼を言いたいんです」
はにかむような笑顔だった。 【袴田貴行】
(転載おわり)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2011年4月22日・・もう一つの忘れてはいけない日。
(m)
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テーマ:動物愛護 - ジャンル:ペット
- 2014/04/29(火) 17:52:28|
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